人は、自分の人生を「選んできた」と思っている。
あの進学、この就職、あの別れ。
振り返れば、すべては意思決定の連続だったように見える。
けれど、少し視点をずらすと、
その感覚自体があとから生成された意味であることが見えてくる。
人は、選んだから今ここにいるのではない。
ここに来てしまったあとで、「選んだことにしている」。
本稿は、その構造を扱う。
意味は「行動の原因」ではなく、「結果の固定装置」である
私たちはしばしば、こう考える。
納得して選んだから、続けられている
意味があるから、踏みとどまっている
しかし実際には、順序が逆だ。
意味は、行動を生み出すために存在しているのではない。
すでに起きてしまった行動を、回収するために生成される。
このとき意味は、説明ではなく、
自己整合性を保つための構造物として立ち上がる。
「納得している」という感覚の正体
人が最も安心するのは、「納得している状態」だ。
だが、この納得は、真実の確認ではない。
位置の安定化に成功したサインに近い。
不安定な状態では、意味は揺れる。
揺れる意味は、行動を止める。
だから人は、
に対して、意味を与える。
意味とは、
「ここに居続けることを自分に許可する装置」なのだ。
人生が「物語」になる瞬間
ある時点から、人は自分の人生を語り始める。
この語りが生まれた瞬間、
人生は「出来事の集合」から「物語」に変換される。
物語は便利だ。
だが同時に、物語は強力な固定装置でもある。
一度語りが成立すると、
人はその語りに沿ってしか、自分を理解できなくなる。
自己理解が「檻」になるとき
自己理解は、本来、自由度を上げるもののはずだ。
けれど、意味生成が強くなりすぎると、逆転が起きる。
このとき自己理解は、
可能性を広げる装置ではなく、行動を制限する境界線になる。
重要なのは、
その境界線が「事実」ではなく、
意味によって描かれた線だという点だ。
意味は真実ではないが、現実を動かす
ここで誤解してほしくないのは、
意味が「嘘」だという話ではない。
意味は、事実ではない。
だが、現実に強く作用する。
人は、
だから意味は、
人生を説明するためのものではなく、
人生を固定する力そのものになる。
このフェーズで起きていること
本シリーズのここまでで扱ってきた、
それらはすべて、
意味が生成される前段階の力学だった。
この稿で初めて、
その核心に触れたことになる。
次稿への予告
次に扱うのは、
この意味生成が、他者や世界の見え方をどう変えるかだ。
意味は内側で完結しない。
必ず、外の世界へ投影される。
次稿では、
意味生成のレンズを通して現れる
他者・社会・現実の歪みを扱う。

