人は、自分の内側で完結しているあいだ、
どんな語りでも持つことができる。
それが正しいか、整っているか、深いかどうかは、
ほとんど問題にならない。
しかし、その語りが社会に差し出された瞬間、
評価軸が一つだけ立ち上がる。
―― それは、役に立つのか。
このフェーズで起きているのは、
語りの否定ではない。
語りが、交換可能な形に変換され始めるという現象だ。
語りは「理解される」前に、「使えるか」を問われる
社会は、語りを味わわない。
社会が最初に見るのは、
という、機能としての側面だけだ。
ここで多くの人が違和感を覚える。
こんな浅い形にされるために、
ここまで考えてきたわけじゃない。
その反発は自然だ。
だが、このフェーズで起きているのは、
「浅くされた」のではなく、
意味が、社会用の単位に圧縮されているだけである。
自己は「意味」ではなく「条件」で成立し始める
この地点から、自己の成立条件が変わる。
それまでの自己は、
で保たれていた。
だが社会に出ると、
自己は次の条件を満たすかどうかで成立する。
ここで初めて、
自己は「社会的に成立しているか」という問いに晒される。
語りが壊れるのではない。試験台に載せられる
このフェーズを
「語りが壊される段階」だと誤解する人は多い。
実際には逆だ。
壊されているのは語りではなく、
語りを守っていた内的な無条件性である。
そうした前提が、
社会の場では一度、解除される。
語りはここで初めて、
現実耐性を試される対象になる。
役に立たない語りは、間違っているのか?
ここで生じやすい二項対立がある。
だが、これはフェーズの混線だ。
社会は、
「深いかどうか」を測っていない。
測っているのは、
今この場で、機能するかどうかだけである。
深さは否定されていない。
ただ、未翻訳なまま置かれている。
このフェーズの本質
この段階の本質は、こう言い換えられる。
語りは、
「わかってもらえるか」ではなく
「使われるか」という問いに置き換えられる。
そしてこの問いに直面したとき、
人は二つの分岐に立つ。
次のフェーズで起きるのは、
後者を選んだときにだけ生じる現象だ。
次稿予告
次稿では、
意味が「売られるもの」「評価されるもの」へと変わり、
自己が価値と結びついていくフェーズを扱う。
そこで初めて、
語りは価格を持ち、
比較され、
選ばれる対象になる。
語りはまだ壊れていない。
だが、守られてもいない。
次のフェーズでは、
その語りが、
どのように「価値」と誤読され始めるのかを見ていく。

