※本記事は「迷い/選択の内部構造」シリーズの第二段です。
第一段となる基礎記事は
「選べないのは『優柔不断』ではない|迷いが生まれるときの内部構造」を参照ください。
「どちらを選ぶべきか分からない」という迷いは、
しばしば「決断力の問題」や「優柔不断」として語られます。
しかし、実際に迷っているとき、私たちは
まで、静かに 同時並行で思い描いている ことがあります。
迷いとは「比較ができない状態」ではなく、
それぞれの世界の内部が
すでに“少しだけ見えてしまっている状態”
として立ち上がっているのかもしれません。
本記事では「迷い=認知の密度」という視点から、
複数の世界が同時に見えているときの内部構造を描きます。
迷いは「選択肢の比較」ではなく
複数の未来が同時にシミュレーションされている
一般的な迷いの説明は
AとBのメリット・デメリットを比べている
という「表面的な比較」の枠組みで語られます。
けれど、実際の内側では
といった 生活の内部の質感 まで見えています。
そのため、
どちらかを「切り捨てる」という
単純化の操作ができない
という現象が起こります。
迷いが長くなるのは、弱さではなく、
世界を粗く扱わない感覚と結びついている。
判断が遅い人ほど
「世界を粗く扱わない」感覚を持っている
「早く決められる人」が優れていて
「迷う人」は未熟だ——
そのような線引きは、
迷いの内部構造を過剰に単純化してしまいます。
迷いやすい人ほど、
という 配慮ではない静かな認識 を持っています。
それは
判断力の欠如ではなく
世界の複層性をそのまま受信している
ことの副作用でもあります。
迷い=弱さ ではなく、
複数の世界を「同時に存在させている認知の密度」。
迷いが「苦しさ」に変わる地点
—— 自分の感覚が視界の外側へ押し出されるとき
迷いそのものは、必ずしも痛みではありません。
痛みが生まれるのは、
- 自分の内側で見えている世界像が
- 外部の論理や常識によって
- 「存在しないもの」として扱われるとき
です。
そこで起きるのは
「自分の感覚は、ここには置けない」
という、静かな摩擦。
違和感が在ることは分かっていても
それを「見てはいけないもの」と処理してしまう——
迷いが苦しさへと変わるのは、
この地点に差しかかったときです。
選べないのではなく、
見えている世界を“捨てることができない”。
選択とは「正しさの獲得」ではなく
—— 内側の地形に近い世界へ静かに寄っていく運動
選択は、
- どちらが合理的か
- どちらが社会的に正しいか
だけで決まるものではありません。
それよりもむしろ、
どちらの世界が
自分の内側の地形に、より“近い”か
という 距離の問題 に近い。
迷いは
「排除できないことの失敗」ではなく
「どの世界と近づくかを調整しているプロセス」
として読むことができます。
選択とは、正しさの勝敗ではなく、
すでに見えている複数の世界の中から
「今は、ここに身を置く」という
静かな姿勢の選択
なのかもしれません。
—— その感覚を尊重したまま、生きていく。

