自己語りは、後追いで立ち上がる行動が意味を連れてきたあと、
人はしばらく、その意味の中で安定します。
「自分はこういう人間だ」
「これは、こういう理由でやっている」
言葉が追いつき、説明ができ、
自己語りが成立している状態です。
けれど、この安定は永続しません。
ある地点で、意味はふたたび、力を失い始めます。
意味が壊れるのではなく、「触れなくなる」
多くの人は、
「意味が否定された」
「価値観が壊れた」
と感じます。
しかし実際に起きているのは、
意味そのものの崩壊ではありません。
意味は残っています。
ただ、現実に触れなくなるのです。
行動を動かしていたはずの言葉が、
次の一歩を生まなくなる。
このズレが、静かに現れ始めます。
現実は、意味よりも解像度が高い
意味は、現実を整理するために生まれます。
けれど現実そのものは、常に意味よりも複雑です。
人との関係
環境の変化
身体の疲労
感情の微細な揺れ
こうしたものは、
既存の意味の枠を少しずつ越えていきます。
すると、以前は機能していた言葉が、
現実の手触りに合わなくなる。
このとき人は、こう感じます。
「分かっているのに、進めない」
「意味はあるはずなのに、動けない」
多くの人がやってしまう“誤った修正”
ここで多くの人は、
意味を強化しようとします。
しかしこれは、
効かなくなった道具を研ぎ続ける行為に近い。
問題は意味の不足ではなく、
意味が担える役割の限界に来ているからです。
このフェーズの本質
現実接触フェーズとは、
意味が現実を導く役目を終え、
もう一段、別の循環を要求し始める地点
です。
ここで必要なのは、
新しい説明でも、より強い自己定義でもありません。
必要なのは、
意味を一度、脇に置くことです。
次に起きること
意味が効かなくなったあと、
人は二つの方向に分かれます。
一つは、
意味にしがみつき、自己を固定化していく道。
もう一つは、
意味が生まれる前の「揺らぎ」に戻る道。
次稿では、
前者――自己固定化フェーズを扱います。
なぜ人は、
動けなくなった意味を、
それでも手放せないのか。
その構造を、次で描いていきます。

